アナロジー:三つのくにづくりについて
李晶玉 個展
李は、在日朝鮮人3世という立場から、国家や民族、アジアの歴史などに対する横断的な視点を足がかりに制作を行っています。古典絵画から構図や象徴的なモチーフを引用し、コラージュなどの手法を用いて、写実的かつ複層的な絵画作品で注目を集める作家です。
近年では、隣接して建つ朝鮮大学校と武蔵野美術大学の両校を隔てる塀に橋を架けるプロジェクト「武蔵美×朝鮮大『突然、目の前がひらけて』」(2015)に参加し、同プロジェクトのメンバーとともに展覧会「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989–2019」(京都市京セラ美術館、2021)に出展。2022年には原爆の図 丸木美術館で個展「SIMULATED WINDOW」を開催するなど、今後の更なる活躍が期待される作家です。
本展では、南條史生のキュレーションのもとに制作された新作絵画作品を展示いたします。
アナロジー:三つのくにづくりとその背景
異なった文化の出会いと交流、そしてその緻密な影響関係を調べることは、大変奥の深い仕事である。私自身はこれまで台湾や韓国、東南アジア諸地域で、美術の近代化のプロセスとそれに伴う交流の歴史を興味深く観察してきた。また80年代から近代化の問題と並行して、美術のアイデンティティー問題が登場し、2000年を超える頃まで、ビエンナーレ、トリエンナーレの恒常的なテーマとして議論されるのを見てきた。その際、浮上する議論の要点は多様で、民族、国籍、宗教、人種、歴史の問題から難民、移民、植民地問題などに及び、多様な議論を促進する機会を生み出してきた。しかしそうした議論の中でも日本における在日朝鮮人の問題はあまり土俵に乗って議論されてこなかったのではないだろうか。
今回NANJO SELECTIONシリーズで取り上げる李晶玉は、在日朝鮮3世のアーティストであり、小学校から大学まで、在日の人たちの子弟のための教育機関で教育を受けてきた作家である。驚いたことに、日本人と相対してアイデンティティー問題などを議論したのは、彼女が通っていた朝鮮大学校とキャンパスを接する武蔵野美術大学で、互いの敷地に橋を架けたユニークな共同プロジェクトを実施した時が初めてだったという。日本に生まれ日本で育ってきた人間が、面と向かって日本人と話す機会が無かったということ自体、私には驚くべき事に思える。だが、それも在日の人たちにとって当たり前の日常なのかもしれない。
在日のアーティストを理解するために、『在日朝鮮人美術史1945-1962』(白凜著、明石書店)を参照した。それによれば第二次大戦後、日本にいた60万人の朝鮮人は国籍を失ったという。その結果、彼らは出身地にかかわらず、北の朝鮮民主主義人民共和国か、南の韓国を選ぶか、日本にとどまるかを選択せざるを得なかった。その選択の難しさは想像に難くない。そして日本にとどまった人々は在日と呼ばれることになった。 その後、彼らは日本において、いかに朝鮮人のアイデンティティーを模索しつつ表現者になるかに苦慮することになった。また同書には、北と南、日本という国家の枠組みの中で、いかに彼らが苦悩してきたかが活動として詳述されている。しかしそれをよんでも、在日の人たち個々人がおかれている生活のリアリティーはわからない。
李の初期の作品を見るといくつかの作品で、少女が床にうずくまり、あるいは花畑に遊ぶ姿(2011)が描かれている。あるいは茶色一色で描かれた詳細なデッサンによる老若男女のポートレートのシリーズがある(2012−2013)。写実的だがいずれの人物も輪郭はぼんやりとぼけて、記憶の中の存在のようだ。2人の女性の身体が突き抜けて相手の身体を通り抜けているイメージもある。それらの作品はある意味で亡霊を描いているように見える。そのような淡く、たよりない存在感は初期の作品の特徴だろう。「EDEN」(2014-2016)のシリーズは、スタイルが変化し、鮮明でカラフルな花畑や、白いドレスを着た女性が明るい雰囲気で描かれている。また『Ophelia』(2014)と名付けられた作品は、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』を思い出させる。彼女は、写実の技法を使いながら実在する人間を描こうとしていたのではなく、不確かで、揺らぐイメージの存在の向こう側にある見えない何かを描こうとしていたのではないか。初期の作品から一貫して彼女の内に秘めた不安、心許なさのような心理が現れているのかもしれない。それは、自己のアイデンティティーに対する様々な思いと揺らぎの反映であろう。その後、2015年に登場する『群像図』は、線だけで描かれた群衆である。線だけで成立している作品としては、極めて独自のものだ。しかも他の作品とは異なって多数の人間が描かれている。ここで、孤独な個人という存在から、多数者の中に混じり合う自分を感じ始めたのだろうか。社会と個人の関係、そこから自己が何者であるかという問いも生じてくるだろう。
2022年に原爆の図 丸木美術館で発表した「SIMULATED WINDOW」シリーズは原爆投下という鮮烈な主題を扱っている。ここでは広島に原爆を投下したアメリカのB29爆撃機エノラ・ゲイや原爆ドーム、そして赤い球体を描き、極めて焦点の絞られた作品群を提示した。ここでは戦争画と原爆問題に対するタブーが重なって、見る物にある種の違和感と居心地の悪さを感じさせる。これらの出来事は日本にとって、屈辱と痛みとがないまぜになった被害者としての歴史であるが、またそれは太平洋戦争の加害者であった日本の一連の判断の結果としてそこにある。そしてアメリカの原爆投下を断罪するのか、正当化するのか、どちらにも踏み入らずに、忘却することを試みるのか。それは今日の、平穏な生活の中で避けて通りたい主題のはずだが、李はそれらの問題を正面から見つめるように我々に突きつけている。
こうした問題の複雑さは、どのような発言にしても、それはどのような立場に立ってなされるのかということを問われるところにある。それはたとえば、広島、長崎における20万人以上の犠牲者の側に立って、そこに行き着いた日本の責任を論じるのか、アメリカの非人道的な行為を批判するのか、巻き込まれた他の国の人々の立場に立って発言するのか、その立ち位置で言うべきことは大きく異なるだろう。その議論は拡大し、日本は太平洋戦争についてどのような見解を持っているのか、日本という国のアイデンティティーをどう規定するのか、個々人の見解を問われることになるだろう。こうした問いを突きつける作品の作者が在日朝鮮人だとすれば、その制作の意図は、ますます複雑な様相を帯びる。しかしここでもう一度シリーズの作品を見てみると、その作品群は、重い主題に対して不思議に透明で明るい空気感がある。それは日本やアメリカの戦争責任、人道的責任などの批評的議論から滑り抜け、妙な軽やかさを見せているのだ。
私の興味を惹いたのはおそらくそのギャップではないだろうか。複雑な立場を抱えながら、自己のアイデンティティーをどう表現し、どう折り合いをつけていくのかという問題に対する李晶玉の態度、あるいは存在のあり方。今、現に生きている身の回りの社会の現実と、その中で在日朝鮮人として生きる立場のアイデンティティーの複雑さ。しかしそれらの矛盾や問題を超克して生きているからこそ、この原爆シリーズが生まれてきたのではなかったのだろうか。もし彼女が、自身を取り巻く多様な矛盾と選択の問題に折り合いをつけたのだとしたら、どのようにそれは為されたのか、とも思う。
エノラ・ゲイの機体や原爆ドームの表現には線描でスケルトンのような講造が描かれていて、未完の設計図であるかのような印象を与えている。細い線描は繊細で厳密で科学マニアの少年が好むような明瞭で客観的な論理性を漂わせる。それは青空の前で実在しない夢のような、儚さを作り出して李独自の世界を作り出している。それは原爆開発者オッペンハイマーが苦悩した科学技術者の悲劇的な結末を、あっけらかんと暗示しているのかもしれない。
李は2023年から2024年にかけて、ギャラリー「NANAWATA」で「神話#2」シリーズを発表した。このシリーズは、日本、韓国、北朝鮮の3カ国の国作り神話が主題である。今回、当Art SITEで開催した展覧会は、その発展上にあると言える。ここでその3つの神話を説明しておこう。
延烏朗・細烏女の神話(韓国)
阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸に住んでいた延烏朗(ヨノラン)・細烏女(セオニョ)という夫婦がいたが、ある日、延烏朗が海岸で海藻を採取するために大きな岩に乗ると、その岩は延烏朗を日本まで運んでいってしまった。日本にたどりついた延烏朗は日本の国王になった。一方、細烏女が延烏朗を探しに海岸へ行くと、大岩の上に夫の履き物が置いてあった。細烏女がその岩の上に乗ると岩は彼女を日本へつれて行き、細烏女は延烏朗に再会して、日本の王妃となった。その結果、新羅には日月の光が絶えてしまった。新羅の国王は、2人を捜しに部下を日本に送ったが2人は帰らなかった。そこで2人の娘の織った生絹を使いに渡し、天に祭るように言った。使者が新羅に帰ってから言葉通り天に祈ると、太陽と月がもとに戻った、というものである。
檀君神話(北朝鮮)
天孫の檀君(タングン)が古朝鮮の始祖になったという古朝鮮の建国神話である。『三国遺事』によると、天帝桓因(かんいん)の子、桓雄(かんゆう)は、父から天符印3個を授けられ、従卒3000人を率いて太伯山頂の神檀樹(しんだんじゅ)という神木に降臨した。すると近くの洞穴にいた虎と熊が、人間になりたいという望みを持っていたので、2匹に蓬とにんにくを食べて忌み籠るよう告げると、熊は女に化身し桓雄と交わって檀君を生んだ。その檀君は後に平城に都を開き、1500年の間、国を統治したという。この物語は 南北朝鮮の両国で朝鮮民族の独自性と同一性と歴史の古さを強調するために援用されてきた。今日ではこの話は北朝鮮の金日成の誕生物語と重ね合わされて語られる。北朝鮮建国の始祖である金日成は檀君と同じく、白頭山の地に誕生したとされているのだ。そこで、天孫降臨が現実の物語として、金日成の神格化に貢献している。一方で両国統一の根拠をも提供しているということになる。
天岩戸神話(日本)
太陽の神であったアマテラスオオミカミは、弟スサノオノミコトの粗暴な振る舞いを憂い、彼を避けるために天岩戸の中に身を隠してしまった。 そのため、現世は暗闇となり、八百万の神々たちは大変困ったが、アメノウズメが天岩戸の前で扇情的な舞を踊り、その騒ぎを聞いたアマテラスが、何事かと天岩戸から顔を出し、外の様子を垣間見ようとしたところを、剛力の神アメノタヂカラオが岩戸をこじ開け、アマテラスを外に引き出すことに成功した。こうして世界は光を取り戻し明るくなったという物語である。
これら3つの神話には様々な点で共通性がある。まず登場人物が去って、そのため太陽が失われたが、その人物を引き戻して、世界を明るくしたという物語の展開である。また檀君神話は韓国と北朝鮮に伝わる物語なので、両国がひとつの国であるという主張の根拠にもなっている。もうひとつは、天孫降臨に見られる、統治者が天から降臨して、国の基点を定める話である。いずれの場合も国家の基礎が那辺にあるかを語ろうとする。
李はこのような国作り神話に興味を持ち、それぞれの神話を微細な線描で描くと同時に、その主役をカットアウトし、コラージュし、またそこに着彩して、相互に連関した一群のシリーズ作品を作り出した。大岩の前に立つアマテラスオオミカミ、あるいは白頭山の湖の前に立つ金日成。檀君神話の降臨の樹木。これらの作品が語っていることは、それらの神話の生成の陰に見え隠れする国家という巨大なシステムとその存在の根拠を構築する物語の虚構性についてである。いずれの神話も国家という仮設のアイデンティティーの根拠を提供している。国家という仮説は、ある種の共同幻想である。あたかも運命共同体として逃れられない枠組みとして、コミュニティーとして、家族として、人々を規定し、規制し、鼓舞し、そして戦争に駆り立てる。貨幣の価値も国家が保障し、その結果あらゆる経済価値もまた仮説の上に構築されていることになる。こうした巨大な共同幻想の根拠がこのような神話にあるのだとしたら、我々はもう一度すべてを考え直すべきではないのか、またもしこのような仮説が根拠であったとしたら、戦争などに意味があるのか。そして誰が今日の世界をこのようなおぞましいものにしてしまったのか。
李は、建国神話の持つ虚構性の裏に、権力の欲望、人々の退廃した思考、批評性の欠如などの問題が潜んでいることを見抜いている。それは原爆シリーズが暗示する近代の合理性と非人間性の確執にも通じるものだ。科学技術への確信と誰にも止められない一義的な思考が、非人間的な結果を生む。
在日とは、その基盤とする社会においては異邦人である。奇しくも今年の第60回ヴェネチア・ビエンナーレは、「Foreigners Everywhere(どこにでもいる外国人)」というテーマであった。ヴェネチア・ビエンナーレにおいては、原住民、少数民族、LGBTQなど諸々のマイノリティーの人々のアートが所狭しと紹介されていた。しかし、この展覧会は本当にマイノリティー側の立場に立った展覧会なのか判然としない。異邦人とどう折り合いをつけるのか、それは簡単なことではない。国家の虚構を暴いても国家は存在し続けるだろう。アナーキストは自由とユートピアの夢を抱えて、何者にも行き着けず、中に漂う。
今は多様性社会という言葉が錦の御旗のように掲げられている。しかし多様性は、他者との矛盾、確執を解消できるのか。それは多大な痛みを伴うだろう。振り返ってみれば東西文化の狭間に立って「東は東、西は西」といったのは、イギリスの詩人で日本を訪れたこともあるラドヤード・キプリングの残した言葉だ。在日の立場は世界的に見ても極めて特殊だと言わざるを得ない。最大の特徴は、3世代にわたってそのコミュニティーを、他者の社会の中に維持し続けていることだ。その視点から周りを取り巻く社会を見たらどのような景色が見えるのか。そのことを考えつつ、私は彼女の作品を見る。そこに明確な回答が指し示されているわけではない。しかし在日ではない他者である私たちは、その異邦人としてのあり方を想像するきっかけを与えられる。そこには、国家の虚構性と通底した、私たちの社会の持つ共同幻想の危うさを暗示させてくれる物語がある。その共生はまた、李のアイデンティティーと密接に繋がっているのだ。私はこれまでこのような事を考えさせてくれる作品に出会ったことは無かった。アートはまだ、見えなかったものを垣間見させる、予想以上に深い装置である事も可能なのだ。
南條史生
開催概要
展覧会名: NANJO SELECTION vol. 3李晶玉 個展 『アナロジー:三つのくにづくりについて』
会期: 2024年3月29日㈮―4月26日㈮ 12:00-17:00 (日) (月)休
会場: N&A Art SITE(東京都目黒区上目黒1-11-6 / 東急東横線中目黒駅より徒歩5分)
主催: エヌ・アンド・エー株式会社、アートジーン合同会社
李晶玉について
李晶玉が描く作品は明確なテーマ性=物語を持っています。2022年に原爆の図 丸木美術館で開催された「SIMULATED WINDOW」では、原爆とそれを投下した爆撃機エノラ・ゲイが主題でした。線描で描かれた繊細な描画と爆心地の上の赤い玉、まがまがしさと透明さの共存は、これまで見たことのない鮮烈な視覚世界を開きました。また2023年にNANAWATAで開催された「神話#2」では日本の「天岩戸」神話、韓国の「都柝野」神話と北朝鮮の建国の物語をもつれた糸のように対置させています。今回の展示はこの神話シリーズの延長であると同時に、新たな新作で、次なる境地を示すことを試みています。
南條史生
Artist Profile
李晶玉 /
Ri JongOk
11991 年東京都生まれ。2018年朝鮮大学校 研究院総合研究科 卒業。東京を拠点に活動。
Xアカウント:@RiJongOk
(近年の展覧会歴)
2023 個展「神話#2」NANAWATA・東京
2022 個展「SIMULATED WINDOW」原爆の図 丸木美術館・東京
個展 Gallery Q・東京
2021 個展「記号の国」Gallery Q・東京
グループ展「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」京都市京セラ美術館
2020 グループ展「VOCA展 2020 現代美術の展望―新しい平面の作家たち」上野の森美術館・東京
2018 個展「神話#1」eitoeiko・東京
2015 グループ展「武蔵美×朝鮮大『突然、目の前がひらけて』」武蔵野美術大学、朝鮮大学校・東京